NHS苦情処理制度
今年2月の、福島県立大野病院の産婦人科医が逮捕された事件については、精神科医である日本の友人たちから、遅まきながら、4月になって初めて教えてもらった。(私は福島県出身です。)
私は産婦人科医ではないし、現在日本で臨床に携わっていないので、手に入れられる情報は、主にインターネット上の医療情報やニュース、個人・グループのブログや掲示板を通してのものである。様々な立場からの情報・意見を目にしたが、手に入る情報をみるかぎり、なぜ、この件が刑事事件として取り上げられることになったのか、まったく理解できない。日本産科婦人科学会をはじめ、声明を出している関係機関が何度も繰り返している、医師たちが抱いている危機感を、私も共感する。
公判前整理手続きが適用され、9月にも初公判が開かれる見通しであると聞く。裁判を通じて、当事者である医師の名誉が回復されることを期待する。また、ご本人・ご家族ともに、この大変な時期を、精神的・経済的なサポートが得られ、乗り越えられるよう願う。
さらに、もう一方の当事者である、今回の件で亡くなられた女性のご家族と、残されたお子さんに、心から哀悼の意を捧げる。今回の逮捕・起訴により、事件の報道や反応が、当事者(警察・検察も含む)の予想を超えて広がったことに、当惑されていることと想像する。また、医師が抗議の声を上げていることによって、医療に対する不信の念をさらに深めることになっているかもしれない。度重なる報道によって、残された家族は、つらい喪失体験を何度も追体験せざるをえないであろう。医師たちが声を上げた理由をわかりやすく、中立的に説明できる人が側にいて、必要な精神的サポートも受けられるよう、願わずにはいられない。
さて、前置きが長くなってしまったが、大野病院事件に関する一連の日本の報道を追いかけていて、イギリスではどのように医療に関する苦情(complaints)を解決するのだろう、と興味がわいたので、調べてみた。
イングランドのNational Health Service(NHS、国営医療機構)を通した医療サービスにおいて、患者が満足できない場合、また、医療事故(医療過誤も含む)を疑った場合、「The National Health Service (Complaints) Regulations 2004」という制度に基づいて、苦情申し立て、解決を図ることができる。これは、「NHS complaints procedure(NHS苦情手続き)」とよばれる、2004年7月に始まった制度で、患者からの苦情をいくつかの異なる機関が調査・処理するよう定められている。(制度は2004年以降段階的に導入され、2006年に一部改良される予定である。)
患者側にとって身近にある相談窓口は、NHSのPatient Advice and Liaison Service (PALS、患者への助言・協力サービス) である。PALS自体は「NHSお客様係」のようなもので、苦情処理のための機関ではないが、苦情の内容や種類によっては、もっとも早く助言・解決が得られる可能性がある。
苦情申し立ての一番初めの窓口は、Independent Complaints Advocacy Services(ICAS、独立苦情擁護・代弁サービス)である。ICASは2003年9月に設立された、NHSに対する苦情を処理するための、独立した機関である。患者またはその代理人(介護者または弁護士等)は、医療サービスを受けたNHSのある地域のICASに苦情を申し立てることができる。ICASのサービスそのものは、Department of Health(保健省)が、実績のある(アドボカシーなどの)サービス提供団体と直接契約し、それらの団体を通じて提供される。(現在契約を請け負っているのは、Carers Federation、Citizens Advice、POhWER、South East Advocacy Projectsといった団体である。)イングランドを11の地域に分け、それぞれの地域にICAS地域事務所を置き「地域での問題解決(Local Resolution)」を目指す。苦情処理の方法については、苦情の対象(家庭医、病院、薬局等)や種類・内容によって、細かい指針が定められている。
ICASの結論に満足できない場合、「地域での問題解決」は断念され、患者は、次に、当該のNHS機関(一次ケアの医療機関またはNHSトラスト)の責任者(トラストのチーフ・エグゼクティブ等)に直接苦情を申し立てることができる。NHS機関側は、苦情を受け取ってから20日以内に、苦情に対する初期回答をする義務がある。苦情の内容によっては、その後、NHS機関内で調査を進め、解決を図る場合もある。
この回答・処理で問題が解決されない場合、患者は、保健サービス委員会(Healthcare Commission)に独立調査会(Independent Review)を開くよう、請求できる。保健サービス委員会は、保健医療サービス(NHSだけでなく、プライベート・セクターの医療機関も含む)を独立して監査するための機関であり、イングランド内に6つの事務所がある。苦情申し立てに対し、初期調査(Initial Review)をおこない、必要があると認められれば、独立調査会を開いたり、苦情の処理によりふさわしい機関(GMC、Health Service Ombusman等)に調査を依頼し、結論を出す。
保健サービス委員会の結論に満足できない場合、苦情処理の最終の場は、保健サービス・オンブズマン(Health Service Ombudsman)である。これは正式には、Parliamentary and Health Service Ombudsman(議会ならびに保健サービス・オンブズマン)といい、(1) 政府ならびに国の機関、(2) NHSによる保健サービス、(3) 刑事事件の被害者、の3つの分野に関する苦情処理をする、独立機関である。(政府からも独立している。)
保健サービス・オンブズマンは、苦情を調査し、もし苦情が事実であれば、それを正すための勧告を出す権限を有する。勧告に法的拘束力はないものの、大抵の場合、NHS側は勧告が出ればそれに従うそうである。また、必要と認められれば、医療機関側に「非を認め、患者に謝罪する」よう勧告することもできる。
このように、「NHS苦情手続き」は、司法の手を介さずに、患者側・NHS側ともに法的費用を抑え、迅速に問題を解決するためのものである。NHSの公費負担による医療サービスのみを対象にしており、NHSに所属する医師から受けた私費医療に対する苦情は受けつけない。また、患者が、民事裁判を起こしている(または準備している)場合、この制度が使えないこともある。
苦情の内容が、医師個人の臨床行為や、医師としての資質に起因する場合、上記のNHSに対する苦情と同時または別個に、医師評議会(General Medical Council、GMC)に、医師に対する苦情として申し立てることもできる。GMCは、医師法(Medical Act 1983)に基づき、医師の資格審査・登録を管理している団体である。
GMCは、苦情を受けると、まず担当の調査官が調査し、必要と判断されれば、医師ならびに一般人(司法関係者や医学以外の分野の専門家)を委員(panelists)とする適性評価委員会(Fit to Practice Panel)を招集し、医師に対する処分を決める。処分は、研修や再教育を命じるものから、資格停止・資格剥奪まで様々である。医師の適性を評価する過程において、医療行為が過誤であったかどうかの判断をする場合もあり得る。しかし、患者への賠償問題には関与せず、これは民事事件として、法廷内外での交渉が必要となる。また、過誤があったと認定しても、GMCは医師に対して、患者への説明・謝罪を命じることはできない。
医師個人の臨床行為に関しては、その資格認定から登録、懲戒まで、GMCが一括して管理しているため、臨床行為に関する過失・過誤が疑われるケースは、まず、GMCにおける調査が警察による調査に優先されるようである。GMCの調査過程で、刑事事件としての調査が必要と考えられる場合は、GMCの処分決定後に、GMCから警察に告発する形がとられる。
例外は、医師の処置や裁量を超える明らかな刑事犯罪が疑われる場合で、たとえば、Dr Harold Shipmanの連続殺人事件などである。この場合、GMCは、警察の調査や裁判が終わるまで、関与しない。ちなみに、Dr Shipmanの場合は、有罪が確定し、刑務所に収監された時点で、彼の医師登録はまだ有効であった。
また、刑事事件で有罪になったからと言って、即資格停止・剥奪にはならず、適性評価委員会を通して、個々に処分内容が決定される。
以上、イギリスのNHSおよびGMCにおける苦情処理制度を概観してみた。恥ずかしながら、今回こうして調べてみるまで、このような制度があることなど、ほとんど知らなかった。制度が存在することと、それがきちんと機能していることは、まったく別問題であるが、少なくとも、苦情処理のシステムが作られていて、各機関の役割と裁量の範囲が明記されていることは、患者側、医療側双方にとって、いいことだと思う。
最後に、「日本の医療事故の現状と課題」(国立国会図書館・調査と情報 Issue Brief 433号)という小論文が、日本ならびに諸外国(アメリカ・イギリス・ドイツ)の医療事故に対する現状と制度、課題について簡単にまとめてあり、わかりやすい。
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