Friday, July 21, 2006

熱波ふたたび

 暑い。また熱波である。今週の始めから、最高気温が30度を超える日が続いている。19日には、サリー州のWisleyで36.5度まで上がり、観測史上、7月の最高気温を記録した。

 17日、週明け早々に熱波が「レベル3」になったため、さっそく、患者のケアに注意を呼びかけるe-mailがまわってきた。

 2003年のパリの熱波でたくさんの高齢者が亡くなったことを教訓に、イギリスの保健省は「熱波・健康保健監視制度('Heat-Health watch' system)」を始めた。熱波に対する注意を喚起し、熱波のレベルに応じて、熱波による影響を受けやすいハイ・リスク群の人たちのケアにあたる保健医療や社会福祉のサービスに関わる人たちに警告が出され、対策が立てられることになっている。

 ハイ・リスク群とは下記の人たちをさす。

  • 高齢者、特に75歳以上、または/かつ、単身で暮らす、あるいはケア・ホームで暮らす高齢の人たち
  • 精神疾患や認知症の人たち、日常生活を他の人たちのケアやサポートに頼っている人たち
  • 寝たきりの人たち
  • ある種の治療を受けている人たち
  • 乳児や小児、特に4歳以下の子どもたち
 「熱波・健康保健監視制度」は、イングランドでは6月1日から9月15日まで運用される。天気予報による日中と夜間の最高気温(閾値)により、4段階の警告が出される。警告が出される気温は地域によって少しずつ異なるが、ロンドンの場合、日中が32度、夜間が18度である。イングランド北東部の設定温度が一番低く、日中が28度、夜間が15度である。

 警告は、下記の4段階に分かれる。

  • レベル1 - 注意(Awareness)
  • レベル2 - 警戒(Alert)

     予報で、3日続けて、1カ所でも閾値を超える場合、または、2日続けて健康に影響を与える程度の気温が80%の確率で続く場合。

  • レベル3 - 熱波(Heatwave)

     1カ所以上で閾値を超える気温が確認された場合。

  • レベル4 - 緊急事態(Emergency)

     熱波が深刻かつ/または長期化し、健康保健や社会福祉以外の分野(電力や水の不足等)に影響が及んだり、かつ/または、健康保健や社会福祉の運営が脅かされる場合。

 東京で、これから亜熱帯の夏を迎える人たちにはお叱りを受けそうな設定の閾値なのであるが、実際にロンドンで暮らしていると、これでもけっこう深刻なのである。

 イギリスは、ヨーロッパ大陸に比べると湿度が高いため、気温が上がると蒸し暑くなり、ひじょうに不快で過ごしにくくなる。道路が溶けたり、火災の可能性が高まったりというのは、防ぐのは難しいのかもしれない。しかし、暑さに対する対策、とくに冷房設備がまったく整っていないために生じる問題は、もう少しどうにかならないものかと思う。

 去年の夏も暑く、一般家庭でエアコンの売り上げが記録的に伸びたそうだが、それでも、企業はともかく、大きな病院をのぞいては、公共の施設にはエアコンがないところが多い。(ロンドンよりも最高気温が低いヘルシンキですら、たいていの建物の中には冷房があったというのに。)

 当然、地域精神医療サービスの事務所には、エアコンなど、夢のまた夢である。私のオフィスの窓には、ブラインドがついていないため、日光がもろに差し込み、気温がさらに上昇する。30度を超える気温の中、扇風機が生温い空気をかき回すオフィスで仕事をしていると、体の芯からぐったりしてくる。

 暑いと頭がぼんやりして仕事にならないので、私は水曜から、服装規定(一応あるらしいのだが、詳しい内容は誰も知らない。)を無視して、オフィスではシャツを脱いでタンクトップ1枚になって仕事をしていた。(タンクトップ姿のコンサルタントというのもどうかと思うが、幸い、患者さんやその家族に会う予定はなかったので、仕事の能率を優先することにした。)

 お昼過ぎの地下鉄に乗ったりすると、悲劇である。とにかく暑い。7月17日のEvening Standardには、16日のCentral Lineの地下鉄車内で47度を記録したと書いてあった。地下鉄の駅では、立て看板やポスター、放送で、地下鉄に乗るときはペットボトル入りの水を持参するよう繰り返し呼びかけている。47度の地下鉄がトンネルの中に立ち往生したりしたら、ほんとうに笑い事ではなくなる。これが「もしも」の話でないところが、ロンドンの困ったところなのである。

 学校では、冷房設備がなく、校内が耐え難い環境になるため、臨時休校やお昼で終了にするところが相次いでいる。家に帰っても、家が暑くては状況は変わらないと思うのだが。

 「熱波・健康保健監視制度」の指針によると、環境によっては熱波の影響は増強される。対象になる環境の中には、最上階のフラットや冷房設備の欠如が挙げられている。私のフラットは、5階建てのビルの最上階の屋根裏にあたる階にあり、冷房設備はおろか、扇風機すらない。(やっぱり扇風機くらいは買ったほうがいいかしら。)

 1時間ほど前、下のフラットの住人が我が家のドアをノックした。突然電気が消えて、フラットの入り口近くの火災報知パネルがずっと点滅しているという。控えてあった電力会社の緊急連絡先を教えてあげた。しばらくして様子を見に行ったら、なんとかエンジニアと連絡がとれて、明日の朝一番で修理に来てくれることになったという。やれやれと思っていたら、突然、聞き慣れない警報の音が聞こえてきた。1階まで降りてみると、同じ建物の地下と1・2階を占めるパブの電力が一部落ちたという。これも、連日の暑さのせいかもしれない。(もちろん、単なる故障かもしれないけれどね。)電気が落ちて冷蔵庫と冷凍庫が使えなくなったら、もう、泣くしかない。

Sunday, July 09, 2006

Snus mumrik

 ヨーロッパてんかん学会のため、ヘルシンキに行ってきた。

 ポスター演題を出して、参加費も払ったものの、ぎりぎりまで気が乗らず、出発の10日前に飛行機とホテルを予約し、6日前になってようやく重い腰を上げてポスターを作った。

 Study leave(「仕事上必要な学習」のための休暇で、年休とは別枠で、3年間で計30日の休暇が認められている。)の手配もしてあるし、Continuing Professional Development(CPD、医師としての生涯学習)のための点数も稼がなくてはならないので、行かなくてはいけないことにはかわりはないのだが、ぎりぎりにならないと手を付けないというのは、昔からの悪い癖のひとつである。

 行きたくないと文句たらたらで出かけるのもいつものことながら、行ったら行ったで、懐かしい人たちに会い、知り合いが少し増え、いくつか新しいことを覚えたりして、すっかり上機嫌になり、ああ楽しかったと思いながら帰途につくというのも、いつものことであった。

 学会の合間の観光も、国際学会の楽しみである。

 ヘルシンキはあまり見るものもなくて、つまらない街だよと聞かされていたので、さほど期待はしておらず、ムーミン・グッズを手に入れられればいいと思っていた。(実際には、思っていたよりもずっと楽しめた。)

 ムーミンは、子どもの頃の大好きな話のひとつだった。なかでもスナフキンは大のお気に入りだった。残念ながら、テーマパークのムーミン・ワールドはヘルシンキから日帰りするにはちょっと遠いところにあったので、諦めざるをえなかった。かわりに、せめて原語のムーミンの本を手に入れようと思い、本屋さんに行った。

 そこで発見したこと。スナフキンの名前はスナフキンではなかった!!!

 もともと、ムーミンの話は、フィンランド人のトーヴェ・ヤンソンがスウェーデン語で書き、フィンランド語をはじめとして、いろいろな国の言葉に翻訳された。スナフキンの名前はスウェーデン語で「Snus mumrik(スヌス・ムムリク)」、フィンランド語で「Nuuskamuikkunen(ヌースカムイックネン)」と言う。スナフキンは、英訳に使われた名前がそのまま日本語に転用されたそうである。(詳しくは、Wikipediaのムーミンスナフキンを参照してください。)

 スヌス・ムムリクにヌースカムイックネンね。いやあ、学会に行くといろいろと勉強になる。

 英訳版のムーミン本も買ってきたので、北欧の夏の余韻を感じながら、ロンドンでムーミン・ワールドを楽しむつもりである。

Friday, July 07, 2006

One year on

 あれから1年が経った。

 昨年の7月7日、私は国際神経心理学会のため、ダブリンにいた。前日の夜の飛行機で着き、トリニティ・カレッジの学生寮に泊まっていた。シングルベッドと机とユニット・バスしかない、小さな部屋だった。

 7日は、午後に口頭発表があったので、午前中は部屋にこもり、スライドの手直しや発表の練習をして過ごした。部屋には当然テレビも新聞もなく、テロのニュースなど、まったく知らなかった。

 お昼近くになってようやく、学会場のホテルに出かけた。ホテルの入り口のすぐ右手に、大きなパブ・レストランがあり、大小さまざまのスクリーンがたくさんあった。何やら騒がしく、人が集まっているのに誘われて入ってみると、全部のスクリーンで、ケーブルTVのスカイ・ニュースを流していた。まだ事件の全貌が明らかになる前で、ニュースも断片的で、ロンドンの数カ所で爆発があったこと以外、よくわからなかった。

 ロンドンの友人に携帯から電話をかけると、すぐにつながった。いくつかの地下鉄とバスでほぼ同時刻に爆発があり、テロによるものらしいが、情報が錯綜しており、爆発の数も場所もはっきりしないと言う。

 この時点で、私は、大変なことに思いいたった。日本にいる両親に、ダブリンに来ることを伝えていない!ほんの数日のことだし、ロンドンからダブリンなんて国内旅行に毛の生えたようなものなので、出発前の忙しさにかまけて、連絡するのを忘れていたのだ。

 あわてて携帯から直接国際電話をした。母は、夜7時のニュースで一報を知り、携帯がつながらないと聞き、私あてに無事かどうかを尋ねるメールを送り、コンピュータの前で返事が来るのをいまかいまかと待っていたという。なんて親不孝な娘だろう。

 ダブリンにいる間、私はいささか興奮気味で、また、無事にイギリスに入国できるかどうか、心配したりもしていた。しかし、学会に来ていたロンドンからの知り合いたちはみな、普段とあまり変わらず、たぶん大丈夫だよ、と落ち着いていた。

 実際、3日後の7月10日にロンドンのガトウィック空港に着いたときは、セキュリティも普段どおりで、何の問題もなく入国できた。電車も地下鉄もバスも、爆発のために不通になった一部区間をのぞいて通常に運行されていて、いささか気が抜けた。

 幸いなことに、私の直接の知り合いは、誰も爆発に巻き込まれなかった。しかし、知り合いの知り合いまで範囲を広げると、巻き込まれて亡くなった人や、重傷をおって後遺症が残った人がいる。

 「We are not afraid」のもと、ロンドンはすぐに平常心を取り戻し、少なくとも一般市民のレベルでは、パニックはいっさい起こらなかった。イスラム教の信者に対する嫌がらせは、初めの時期に多少増えたものの、以後は、テロリストとイスラム教信者とは別という姿勢は守られている。(もっとも、普段からいろいろな組み合わせの人種間の緊張による衝突は絶えないのであるが。)公共の交通機関を使うのを控えた人もいたが、私も含め、ほとんどの人が、前と変わらず地下鉄やバスを利用していた。

 この、ロンドン市民たちの冷静さは、外国人である私にとっては、かなり不思議に映り、イギリスはIRAなどでテロには慣れているからかしらなどと、思ったりした。タブロイド紙は、センセーショナルな写真を使った特集を繰り返したが、しばらくすると、いつの間にか消えていった。知り合いの日本料理屋の店主は、日本の雑誌のほうがよっぽどテロ関連の情報にあふれていると言っていた。

 それでも、それまで潜在的な危機感でしかなかったテロの脅威は、はっきりと目に見えるものになった。1年前と比べると、街をパトロールする警察官の数が驚くほどに増えた。そんなに宣伝はされないものの、セキュリティ・アラームは準危険域くらいのレベル2に時々上がるらしい。警察は時に過剰反応し、テロとはまったく無関係のブラジル人を間違って射殺したりした。私の身近なところでは、レベル2のせいで警察官がセキュリティに手を取られるらしく(あるいは、警察のいいわけなのかもしれないが)、強制入院のための訪問診察(Mental Health Act Assessment)のために警察官を派遣してもらうのが以前より難しくなっており、警察が直前にドタキャンをして、診察を中止せざるをえないことが時々あるようになった。

 たまたま今年も、私は7月2日から学会のためにロンドンを離れており、7日の夜に帰国して、ヒースロー空港から自宅まで、地下鉄に乗った。

 地下鉄は、いつもとかわらず、雑多な人種や外見、さまざまな言葉を話す人が乗っていた。レスター・スクエアに着くと、おしゃれをしてパーティや観劇に繰り出した人で、混み合っていた。いつもとかわらないロンドンの金曜の夜の風景である。

 私は家に着いて、インターネットでニュース記事を読み、いくつかの1周年に関する記事に胸が熱くなったり、涙がこぼれそうになったりしながら、私なりに追悼の意を表した。

 1周年の記念日は、哀しみに包まれながらも、平和なうちに過ぎていった。ロンドンは、テロになんか負けない。さらにメトロポリタン都市になり、しなやかに、たくましく、前進していくのである。