Tuesday, January 23, 2007

Happy Birthday, PAMS!

 今日は、私のいるチームのPlacement Assessment and Management Service(PAMS)の1周年記念日だった。

 去年の今日、社会福祉事務所の一角の臨時のチーム・ベースで、PAMSは始まった。SLaMのネットワークにはつながっていなかったため、頼りになるはずの電子カルテはなく、紙のカルテが何十人分か並んでいるだけ。あとは、170人あまりの担当患者名簿の基本的な情報と、前身のチームのメンバーの知識だけが頼りの、なんとも心もとない船出だった。

 そして今日。午前中は、定例のチームのクリニカル・ミーティングがあった。1年前の姿からは想像もつかないほど、個々人も、チームとしても、着実に成長し、自信を深めているように見えた。それぞれ得意・不得意はあるが、お互いにカバーしあい、足を引っ張る人もなく、チームとしてきちんと機能しているのも頼もしい。チームの面々の個人的な資質や努力はもちろんのこと、チーム・リーダーのJの、まったく放任しているようで、実は、押さえなければいけないところはなぜか押さえているという、不思議なマネジメントによるところも大きい。私も、本来の強迫的な性格と、発展途上のコンサルタントの抱える不安の相乗作用によって生じたエネルギーで、自信のなさと経験不足を補いながら、なんとかリーダーシップを発揮し続けることができたと、こっそりと自分を褒めている。

 誕生バーティーをしようと話していたことがあったのだが、年が明けてから、9人のスタッフのうち3人が諸々の事情で抜けるという非常事態になり、Jも私も、チームの仕事をまわすのに気を取られているうちに、あっという間にこの日が来てしまった。

 今週からようやく9人体制にもどり、やっとひと息つける。新顔の2人が少しなじんできた頃、1周年と1ヶ月パーティーでも開くことにしよう。

 その日その日でみると、コトがなかなか思うように進まずにいらいらすることはしょっちゅうであったし、こんな非効率的なことをしていて、きちんとサービスは運営できるのだろうかと、焦ることもあった。ミーティングにつぐミーティングで、いい加減、うんざりすることも多かった。

 それでも、嵐のように過ぎ去っていった1年のうちに、チームとして1年目の目標に据えていたことは、完全ではないものの、なんとか達成してしまった。これにはいささか驚いた。

 2年目は、まず2月に、サービス再編成のため、チームの担当する患者の数が60人増えるという、大きな変化から始まる。臨床面では、評価尺度を取り入れて、評価尺度と臨床・社会的機能との相関をみてみようと考えている。2年目となれば、周囲の目も厳しくなり、目に見える形の「成果」を求められる。(「成果」のひとつがコスト削減ということは間違いない!)私はひきつづき、みんなに発破をかける役割を担当することになる。ユーモアに富んだ、かつ、効果的な催促のしかたを習得しなくてはいけない。難しいんだな、これが。

Sunday, January 21, 2007

もっとも陰鬱な日

 2年前、BBCニュースに「1月24日の月曜日はキライ」という記事が載った。1年で一番暗く気が滅入るイギリスの1月。Cardiff大学の心理学者Cliff Arnallsが開発した計算式よると、なかでも、2005年は第4週の月曜にあたる24日が最悪であるという。

 陰鬱公式 = 1/8W+(D-d) 3/8xTQ MxNA

  W: Weather(天候)
  D: Debt(借金)
  d: Money due in January pay(1月の収入)
  T: Time since Christmas(クリスマスから経過した時間)
  Q: Time since failed quit attempt(新年の誓いが破れてからの時間)
  M: General motivational levels(全体的な意欲の程度)
  NA: The need to take action(行動を起こす必要度)

 冬至を境に日照時間は徐々に延びているのだが、クリスマスを前にした気ぜわしい12月が過ぎると、1月は暗く、うっとうしく感じられる。クリスマスの熱気は冷め、楽しかったクリスマスの思い出はだんだん薄れ、クリスマス・ショッピングとその後のクリスマス・セールの出費による借金が残るのみ。年が明けて、新年の誓い(New Year's Resolutions)は長続きせず、早々に破れてしまう。クリスマス休暇中に蓄えたエネルギーも徐々に尽き、意欲が減退する。これらが積み重なって、陰鬱な気分がピークになるのが、クリスマスから1ヶ月過ぎた、1月第3−4週頃だというのが、Cliff Arnallsの説であるらしい。(ひどい気分を指して、bleakとかmiseryという単語が使われているので、「抑うつ」ではなく、「陰鬱」という訳語を使ってみました。)

 ちなみに、ピークが24日の月曜になったのは偶然であると、Arnallsは言っている。Monday Blues(月曜日の憂鬱)は考慮に入れていないということであろう。

 この記事、2005年にはさまざまなアーカイブや個人のブログに引用された。今年に入っても、1月の第4月曜が近づくにつれて、2年前に比べればささやかではあるものの、あちこちで引用されている。ダブリンでは、第4月曜を前にした日曜日に、Recharge Festival(再充電祭り!)と題したストリート・フェスティヴァルを企画している。これを紹介した記事によると、季節性感情障害のための陰鬱公式が心理学者によって開発され、カウンシルで使用されているとある。(「本日の陰鬱情報」とか流しているのだろうか。)

 かくいう私は、ロンドンで7回目の1月を迎えている。感覚として、たしかに1月は気が滅入る。クリスマスとお正月の休み疲れに加え、暗くじめじめした天気がずしっと気分を重くする。もっとも、クリスマス関連の出費はないし、新年の誓いに対するこだわりもないのだが。

 しかし、1月が一番ひどいかというと、私のJanuary Blues(一月病と訳すのだろうか)は、1年のうちにいくつかある落ち込みのピークのひとつでしかない。夏の休暇シーズンが終わった頃とか、急に日が短く感じられる10月から寒さが厳しくなる11月下旬にかけても、気分が落ち込む。

 今年にかぎってみれば、先々週までは天気が悪く、休みぼけが抜けず、おまけに体調を崩したこともあり、気分が冴えなかった。しかし、先週に入って体調ももどり、週の半ばから天気が回復し、金曜から週末にかけては、お日さまが顔を出したおかげか、気分は上昇傾向である。

 2005年の例を今年に当てはめるとすれば、明日の月曜あたりが1年で一番気が滅入る日になりそうだ。天気予報によると、幸いなことに、気温は下がるものの、天気はこの時期にしては珍しく、晴れ間がのぞくいい天気がしばらく続くようである。なんとか一月病を無事に乗り切りたいものである。

 それにしても、あんなにあちこちで取りあげられていたというのに、どれもみなBBCの記事の孫引き(あるいは、孫引きの孫引き)で、原典をあたった形跡がまったく見られない。BBCの記事の公式も、どれが分子でどれが分母なのかやや曖昧なうえ、各因子が具体的に何を指すのかわからず、式があっても参考にしようがない。GoogleもPubmedもCardiff大学のホームページも見たけれど、Cliff Arnallsの陰鬱公式がデータと一緒に載っている原典は、発見できず。見かけたことがある方がいたら、教えてください。

Sunday, January 14, 2007

Job interview 2−私の経験

 先日の面接は、私にとって2度目の選考委員としての経験だった。ちなみに1度目は、約1年前、自分のチームのスタッフ・グレードの医師の面接だった。

 反対に、面接を受ける側としては、これまでに、今の仕事のインタヴューを含め、3回の面接を受けた。

 最初のインタヴューは、地域精神保健医療サービスのローカム・コンサルタント(正規のスタッフが決まるまでのつなぎの仕事)のポストだった。2年前の2月、当時の臨床部長のAに「仕事が欲しい」とメールを送ったら、Aから、「よかったら、ちょうどローカムを募集してるから、応募してみたら」という返事が返ってきたのだ。(私の仕事遍歴については、こちらに詳しく書いてあります。)

 よかったらどうと言われたって、いくら専門医登録しているとはいえ、イギリスの臨床経験がまったくない人間が、いきなりコンサルタントとして働けるほど世の中は甘くはないだろうと思ったが、自分から頼んでおいてむげに断るのも失礼かと思い、いわれたとおり、半日で応募書類を書き上げて、人事に送った。

 いきなりコンサルタントの仕事ができないのは明白である。応募書類には、「私の現時点での知識と経験では、コンサルタントをして働くのは無理だと思うので、スタッフ・グレードとして、指導を受けながら、限定された責任レベルから仕事を始めたい。」とはっきり書いた。コンサルタントのポストに応募しているのに、コンサルタントとして働けないと書くのもとんでもない話だが、本当なのだから仕方がない。だいたい私は、コンサルタントなら当然もっている、Section 12(2) approval(日本の精神保健指定医のような資格)を取得していなかった。もとより、このポストがとれるわけがない。Aが私の誠意と真剣さをわかってくれ、今後につながればよいという気持ちだった。

 仕事を手にするためのこちらでの「お約束」として、「informal visit(非公式訪問)」というものがある。これは、募集しているポストを現在担当している人や、そのチームを「非公式」に訪ね、見学することである。実際には、このinformal visitで相手側に与える印象も選考の際に考慮されることが多く、「非公式」というのは名前ばかりである。

 私もお約束を果たすべく、ローカム・コンサルタントの担当するチームに見学に行った。実は、地域精神保健サービスの現場に足を踏み入れたのはこの時が初めてだった。チーム・リーダーに会い、チームを案内され、チームの現況や、対象となる患者の話を20分ほど聞いた。今考えると赤面ものだが、実際は何を聞いてもよくわかっていなかったのだと思う。(おもしろいことに、このとき見学に行った建物が、現在の私のチーム・ベースである。)

 数週間後、不思議なことに、私は面接に呼ばれた。間の悪いことに、ひどい風邪をひいていた。39度を超える熱が数日続いており、ベッドからほとんど動けない状態だった。のどが腫れて、声もあまり出なかった。来なさいというなら行ってやろうじゃないかと、解熱剤をがぶ飲みして熱だけ下げ、文字通り、這うようにして出かけた。

 面接では、Aのほかに、2人のコンサルタントがいた。7つ質問があったこと、とりあえず全部の質問に答えを返したことは覚えている。どのように答えたのかは、よく覚えていない。

 まあ、いずれにしても、私が面接に呼ばれたのは、Aが私を見てみるのにちょうどいい場だと考えたからであったと思う。その日の夕方、Aから電話があり、面接に同席していたコンサルタントたちにしばらくついて、shadowingしてみたらどうか、というアドバイスをもらった。当然、仕事のオファーはなかった。

 それから約1ヶ月後。いくつかの偶然が重なった挙げ句、私はリエゾン精神科のスタッフ・グレードの仕事を手にした。

 次の機会は、同じ年の6月から始めることになった、地域精神保健サービスのスタッフ・グレードのポストの面接だった。本来なら必ずしも面接をしなくてもよかったらしいのだが、私の労働許可証の変更やヴィザの延長の問題があり、面接が必要であった。

 この時は、ボスにあたるコンサルタントのRに事前に会った。面接はAとRによる、本格的な面接だった。

 この2回の面接を受けておいたことは、3度目の、今の仕事の面接のために役立った。どのようなことを聞かれるか、どのような答えが期待されているかといった、面接の構造がわかったからである。イギリスで研修を受けた人たちはみな、こういった面接をくぐり抜けてくるのだ。

 そして、11月の今の仕事の面接。応募書類を出すとすぐ、私は関係のありそうな人に連絡をして、面会の予約をとった。PAMSを含めた社会福祉サービスのマネジャーのMと臨床部長のAにまず会い、ランベス区SLaMのディレクターのP、社会福祉事務所のトップのAに会った。チーム自体が発足していなかったため、チームの見学はできなかったが、そのかわり、チームの運営方針の準備原稿や、チームの発足に至るまでのミーティングの記録等、手に入るものには全部目を通した。

 たまたま、一時同じチームで仕事をしていたSpRのNが、私よりも1ヶ月早くコンサルタントの面接を受けたので、その模擬面接に同席させてもらった。また、以前のボスのRに頼んで、1対1で模擬面接をしてもらった。

 そして面接の日。一張羅の勝負服を着て、面接に出かけた。選考委員は7人。コンサルタントの選考なので、Royal College of Psychiatristsから外部のコンサルタントが1人参加しており、残りの6人は内部のシニア・マネージャーやコンサルタント。lay person(医療専門家ではない外部の人)が1人いて、面接の司会を担当し、人事課のスタッフが記録を取っていた。

 面接は約1時間ちょっとだったと思う。こうして、悪運の強い私は、無事に仕事を手にしたのであった。

 それでも、今から振り返ってみると、私の最後の面接でのパフォーマンスは、先日のTと比べるとひじょうに見劣りのするものであったと思う。(コンサルタントの面接と、シニア・ポストの面接を一概に比較はできないのではあるが。)質問に対する認識の深さもそうだし、答え方、自分の売り込み方等、彼女を見ていて、とても参考になった。

 なんでもそうだけれど、テーブルの反対側に座ると、今までに見えなかったものがよく見える。もし次に面接を受ける機会があれば(ないことを祈っている!)、もう少しうまく対応できそうな気がする。

Saturday, January 13, 2007

Job interview 1

 昨日の午後は、インタヴューがあった。リハビリテーション部門の入院施設(3病棟)を担当するマネージャー・ポスト(High Care Clinical Co-ordinator)の選考で、私は、選考委員会(インタヴュー・パネル)の一員だった。ほかに、リハビリテーション部門のジェネラル・マネージャーのMと、区全体のサービス担当のジェネラル・マネージャーのSがメンバーだった。

 昨年末、ランベス区SLaMの看護部門のトップ(Nurse Advisor)が退職し、High Care Clinical Co-ordinatorのCが、6ヶ月間のsecondment(セコンドメント、期限付きの代理としての職務)でNurse Advisorを務めることになった。そのため、High Care Clinical Co-ordinatorが空席になり、6ヶ月間のセコンドメントの募集と相成ったわけである。

 セコンドメントなので、募集は内部のスタッフに限定される。全部で何人の応募があったのかはわからないが、面接に残ったのが2人。クリスマス前に1人の面接はすでに終わっており、昨日はもう1人のTの面接だった。

 職員募集にあたっては、まず、関係するマネージャーがJob description(JD)と呼ばれる募集要項を作る。JDには、トラストの概要から始まり、応募条件、仕事の内容や選考基準が書かれている。JDは、人事等の関係部署の承認後、トラストのイントラ・ネットに内部のスタッフ向けに1週間ほど先行公開された後で、外部向けのトラストのホームページや、リクルート雑誌等に公開される。

 届いた応募書類をもとに、書類選考(short listing)がおこなわれ、short listされた人たちだけが、次の段階の面接(job interview)に呼ばれる。面接は、所属部署、職種の異なるメンバーからなる選考委員会によりおこなわれる。選考委員会はあらかじめ質問を設定し、応募者全員に同じ質問をし、点数評価する。もちろん面接の合計点がすべてではなく、それ以外の点(これまでの経験等)も勘案される。

 シニア・ポストの選考の場合、面接に加えて、あらかじめ与えられたテーマについてのプレゼンテーションが要求されることもある。プレゼンテーションは、lay person(s)(医療職ではない外部の人)を含めた、インタヴュー・パネルとは別の選考委員たちに点数評価される。(今回は、セコンドメントのポストであることもあり、面接だけだった。)

 昨日の面接は、とにかく長かった。Mが12も質問を作り、それも、一筋縄ではいかないような質問が多かったのが一番の理由だった。その上、Tが答え始める前のポーズがいちいち長く、それぞれの答えがまた長かった。あわせて1時間半近くかかっただろうか。

 しかし、Tのパフォーマンスはすばらしかった。面接が終わり彼女が部屋を出た時点で、点数を照らし合わせなくても、すでに答えは出ていた。SがMに「これで、自分たちが定年退職したあとの後継者ができたね。」と言う。Mが「それよりも前に、自分の(ジェネラル・マネージャーの)ポストが危ういかもしれない。」と笑う。私はMに「いっそのこと、オフィスをシェアしたらどう?(ジェネラル・マネージャーのポストをシェアしたら、という嫌味である。)」と軽く冗談で言っておいた。(Mと私は、マネジメントの点で利害が衝突することが多く、天敵同士なのである。断っておくが、個人レベルでは、何の問題もない。)

 ぐったりと疲れたけれど、有能なマネージャーをリハビリテーション部門に迎えることができるのは、嬉しいことである。

Thursday, January 04, 2007

Sylvester

 2007年は、ドイツのケルンで迎えた。

 カウントダウンの花火があるというので、ライン川まで出かけた。

 Deutzer Brucke(Deutz橋)は車両通行止めになっていてひどく混雑するそうなので、大聖堂とDeutzer Bruckeを眺められる、ひとつ南側のSeverinsbruckeに向かった。途中、同じようにSeverinsbruckeに向かう人たちに合流した。みんな、手に手に、ビールやシャンパンと、打ち上げ花火を持っている。なんで花火を見に行く人たちが、花火を手にしているのだろうという私の疑問は、橋につくなり、すぐに解けた。年越し花火は、自分たちで演出するのだった。

 カウントダウン30分前だというのに、すでにあちこちで花火があがっている。川沿いの大きな通りも車両通行止めで、道の真ん中で花火をあげている人たちがいる。時折、橋の下であげた花火が、欄干に寄りかかって見物している私たちの顔のすぐ前をかすめ、空高くあがっていく。Deutzer Bruckeの人垣からも、花火があがっている。

 カウントダウンが近づくにつれ、花火の数はどんどん増えていく。

 そして0時。川に停泊している船が汽笛を鳴らす。その後の10分間は、ただただ、光と音の競演。だんだんと火薬のにおいが強くなり、煙で空が白茶けてくる。

 20分たっても、まだ花火は続いている。消防車とパトカーのサイレンが、あちこちから聞こえるようになった。

 そろそろピークは越えたと思い、橋を降りかけたところ、川沿いの大通りの脇にある駐車場で、なんと車が2台、派手に燃えている。その周りと橋の上からは、野次馬が燃える車を眺めており、車のすぐ近くでは、まだ花火をあげている人がいる。

 聞けば、かれこれ15分も燃えているのに、まだ消防車が来ないという。私たちも野次馬に加わった。その後の10分ほど、消防車が2台通り過ぎたが、どうやら私たちの目の前の火事に呼ばれたわけではなかったらしい。燃え始めてから30分近くもたって、ようやく消防車が到着し、消火作業が始まった。

 花火の音と光が少なくなるのとは反対に、サイレンの音はひっきりなしに聞こえるようになった。私の立っていたすぐ近くでも、川に向けた打ち上げ花火が点火直後にくるっと向きを変え、横にいた見物人に向かって飛んでいくというアクシデントがあった。ドイツ人の友人によると、Sylvesterの花火で、毎年、たくさんの事故があるそうだ。

 帰り道、障害者の施設らしき建物の前を通った。入居者とスタッフが、線香花火を大きくしたような花火を手に、道行く人たちに声をかけていた。私も大きな声で返事をする。「Frohes Neues Jahr!」

Monday, January 01, 2007

新年のごあいさつ

 2006年は、私にとって初めてづくしの年でした。生まれて初めて「常勤」の仕事につきました。日本とは給与の仕組みが違うため、初めてのボーナスをもらうことができなかったのは残念でした。新米コンサルタントとして新しいチームの発足に立ち会い、チームが育っていくのにあわせて、私も少しずつ、同僚と環境に育てられました。なにもかもが未体験ゾーンのできごとで、わけもわからずとにかく流れに乗ってがむしゃらに仕事をしていたせいか、時間が過ぎていくのがものすごく速かったと感じています。

 1年の前半はヨガに凝っていたのですが、熱中して無理を重ねた結果、やればやるほど体を痛めるという悪循環にはまり、秋になる頃にはついに「ヨガで無茶をすると体に悪い」という結論に達し、すっぱりやめてしまいました。かわりというわけではないのですが、秋から自転車で仕事に通っています。新しい年は、この2年ほど熱が冷めていたインライン・スケートをもう少し一所懸命やろうかと思っています。

 3月から、ブログを始めました。三日坊主の私には珍しいことに、まだ続いています。ブログを書き始めて、物事に対する視点が、少し変わってきました。「これはネタになる」と思うと、仕事上のつまらないごたごたや、イギリスのしょうもないサービスも、なんとか耐えられるということがわかりました。

 最近、また誕生日がきて、2007年は不惑の年となります。いかんせん、その前の15歳と30歳の時点での到達点があまりにも低かったためか、不惑にはほど遠いようです。10年後に天命の「て」の字くらいはわかるようになることをめざして、迷いながらも、この1年を過ごせればいいと思っています。

 みなさまにとって、すばらしい年でありますように、心よりお祈りしております。

   2007年元旦

Year of the Boar

The year 2006 was full of "first ever" things in my work and private life.

I started my new job as a consultant psychiatrist. This is the first "permanent" post in my career. (I could have got a "first bonus" were I working in Japan!) With this demanding job, I have been expected to learn quite a lot, including how to be a trustworthy senior clinician, excellent speaker or tough negotiator, in some of which I was not successful yet. Thanks to my lovely colleagues, I have enjoyed working in this job, and think I have been growing gradually.

This time last year, I never imagined that I would become a yoga freak. During the first half of the year, I was really into practicing "hot yoga", attending 3-4 classes per week. Several months into it, I realised that yoga is not good for your health: the harder you push yourself, the worse your physical condition gets. Apparently I should not have used yoga sessions for satisfying my competitiveness! So I just quit in early autumn. As an alternative, I started cycling to work. Again, I could not have imagined myself cycling on the busy streets of London 6 months ago, but here I am. It is satisfying when I manage to make the right turn in a huge crossing ahead of buses or taxis, or to go through a complex roundabout without stopping in the middle. In the coming year, I am planning to do inline skating more seriously.

I started my blog this March. Despite my worries that I would not be able to continue, I am still updating it. About half of my blog entries are work-related, and the remaining half are on some other things such as life in London, strang(!) British habits, etc. I made one of the purposes of this blog to introduce the British medical and mental health system to my former colleagues in Japan. As I continued, I have come to realise that perhaps I benefit more than my Japanese colleagues from writing about this complicated, but excellent (at least in some areas) system. My knowledge and understanding of and insight into various systems surrounding the health system and somewhat political issues have deepened because I had to make a conscious effort to learn and investigate a lot before writing. I am glad that I am still carrying on writing this blog, and my ambition is to start writing both in Japanese and English, to also target people who unfortunately cannot read Japanese. At present I am not brave enough to put this as one of my New Year resolutions for 2007, though.

I turned forty this December. In the Verse 4 of Analects Chapter 2, Confucius said that at the age of forty he had reached a stage in which he had no more "doubts". Interestingly, another translator interpreted "no doubts" as "no delusions". There exist a few different interpretations of this part by different translators. Here are some examples of the Verse 4, Chapter 2:

The Master said, "At fifteen, I had my mind bent on learning.
"At thirty, I stood firm.
"At forty, I had no doubts.
"At fifty, I knew the decrees of Heaven.
"At sixty, my ear was an obedient organ for the reception of truth.
"At seventy, I could follow what my heart desired, without transgressing what was right."

Translation by James Legge

Confucius said,
"At fifteen, I aspired to learning.
"At thirty, I established my stand.
"At forty, I had no delusions.
"At fifty, I knew my destiny.
"At sixty, I knew truth in all I heard.
"At seventy, I could follow the wishes of my heart without doing wrong."

Translation commissioned by William Cheung

Whether doubts or delusions, I still have both at forty. Perhaps this is because I could not clear the earlier passing stages successfully, or because I am not good enough to achieve any in the first place. Whatever the reason is, I will continue doubting and deluding day by day until I turn fifty, when I hope I will be able to touch the very edge of the passing stage for fifty, either my own destiny or the decrees of Heaven.

Wishing you a wonderful New Year time and peace and joy throughout the coming year!