採血屋さん
日本の医療現場で当たり前なことがイギリスでは当たり前でないという経験はよくある。「採血専門家(phlebotomist、フレボトミスト)」もそのひとつである。
イギリスの一般看護業務には筋肉注射は含まれているが、静脈穿刺(venepuncture)や静脈注射・留置(cannulation)といった、血管を穿刺する施術は、専門の講習を修了した人のみがおこなうことができる。
反対に、講習さえ受けていれば、医療職の資格がなくても採血専門の医療補助技術者として仕事をすることができる。これがフレボトミストである。
フレボトミスト協会(National Association of Phlebotomists)によると、GCSE(General Certificate of Secondary Education、中等教育修了資格)を2科目以上パスしていることに加えて、社会人としての基本的条件やコミュニケーション・スキル、手先の器用さがあれば、フレボトミストのコースを受講できる。
実際、精神科の外来では、医療事務や医療秘書の人たちがフレボトミストとして仕事をしている。精神科の外来で陪席を始めた頃は、「フレボトミスト」なるものの存在を知らず、採血のオーダーを出したら、タイプ仕事をしていた秘書さんがいきなり立ち上がって採血の準備を始めたので、面食らったおぼえがある。
すでに看護師の資格を持っている場合、venepunctureの1日講習を受ける。午前中に血管走行の解剖、器具の扱い方や滅菌操作、感染予防についての講義を受ける。午後は、病院の血液検査部で実際の患者さんに採血させてもらって練習する。受講証書を受け取れば、晴れて、採血の仕事ができるようになる。
医療事務の人たちがフレボトミストを兼ねていることが多い背景には、手当の問題がある。フレボトミストとして仕事をすれば、秘書さんたちはその分収入が増える。いっぽう、看護師が採血する場合、下手をすると仕事が増えるだけで給料に反映されない可能性があり、看護師は講習を受けたがらないという。
さて、地域精神保健サービスの患者の場合、基本的に、抗精神病薬の処方も含め、医学的検査や管理は家庭医が担当しているので、私たちが採血をしなければいけない場面はほとんどない。唯一の例外は、クロザピンのモニターのための定期採血である。家庭医が採血を担当している患者もいるが、ほとんどの場合、地域精神保健サービスのクロザピン・クリニックが採血をしている。
どこのチームも、最低1人、採血ができる看護師をチームに確保しており、彼らがクリニックを運営している。チームによっては、派遣会社から週に半日だけフレボトミストに来てもらっていたところもあったが、最近の経費削減のもと、これもなかなか難しくなっている。
うちのチームは、チーム発足の直前になってようやく、採血ができる看護師Cを説き伏せた。Cが毎週クロザピン・クリニックを運営しており、彼女が休暇の場合は、スタッフ・グレードの医師Hがカバーしてきた。
ところが、1ヶ月前、Cが体調を崩した。2週間で復帰できるはずだったのだが、長引いてしまい、さらに2週間病欠を延長するという診断書が届いた。
スタッフ・グレードのHが、文句もいわずによくカバーしてくれたのだが、運悪く、今週は彼女が休暇でいない。さて困った。採血できる人がいない。派遣会社やSLaMのナースバンクは、あてにできないし。
チーム・リーダーと頭をひねった挙げ句、リハビリテーションの同僚のコンサルタントから研修医を1人借りてきて、ことなきを得た。
なぜ私が採血をしなかったかって? コンサルタントが身体診察や採血等の最前線の業務をするかどうかは、それぞれのコンサルタントやチームによって温度差がある。前のチームにいたときは、前任者が何でもやる人だったので、後を引き継いだ私も、緊急の血液検査に何度も駆り出された。今のチームは誰も、コンサルタントを使おうという発想はないらしい。採血役を自分から買って出てもよかったのだが、クリニックに来る面々を見ると、これで駆血帯を巻けるのだろうかと思うほどの腕の持ち主が時々いるので、自分の採血技術を過大評価するべきではないと、自制した。
本音を言えば、あてにされなくて、ちょっとばかり淋しかったのだが。
下の写真は、うちのクリニック・ルームの「採血椅子」である。患者はこの椅子に座り、肘掛けに腕をのせ、リラックスした状態で採血してもらう。ほんとうにリラックスできるかどうかは、試したことがないのでわからない。
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